岩村 真由美
晴れのち桜 岩村 真由美

 「ねぇ,お前の神様って何人?」ある晴れた日,桜降る公園で一人の友人に問いかけられた。いきなり突拍子のない質問を受けた私は,無心だが迷う事なくこう答えた。
「何人って言われても,神様が複数だと思った事は一度もないよ。」
「―――じゃあ,お前の神様と俺の神様は,もしかしたら同じかもしれんね。」 「―――ふぅん。(どっちでもいいけど)」
 2003年4月。当時勤めていた派遣会社に,一人のクリスチャンが入社してきた。新人教育担当の私は,パソコンのキーボードに指も入りきらない大柄なその人を見るなり,「3日続けばいいだろう・・」そう思った。
 ところが予想は大幅に外れ,以外にも彼の仕事は長く続いた。徐々に打ち解けた頃,音楽が大好きな私に彼は言った。「三滝の英語礼拝に来てみたらいいのに。キレイな教会で,音楽も沢山あるよ!」好奇心旺盛で単純な私は「キレイな教会の中で,大好きな音楽を沢山聞く為」それだけの理由で,教会へと足を運んだ。  
 
 初めての教会。礼拝堂は気持ちよくシンプルだった。真っ白い壁に茶色い十字架。その名のとおりグリーンの木。吹き抜けの高い天井と,それに合わせた大きな窓。そこからは,充分な自然光が差し込んでいた。ここには美しい音楽と,温かい人達,そして優しいジムがいた。(ジムはイギリス人で,日本人の奥様を持つ大学教授だ)  
 私は教会の雰囲気と温かい空気に魅了され,英語も分からないのに,気付けば毎週三滝へと足を運んでいた。そんな私に,ジムは頼まなくても毎週黙って隣に来て,当たり前のように牧師先生のメッセージを訳してくれた。ジムが用事で来られない時には,奥様の緑さんやバイリンガルな方が必ず誰か,通訳をしてくれた。そしてそれは,2年以上も続いた。  
 
 私はとても面倒臭がりなので,2年間も,頼まれてもいないのに当たり前のように毎週通訳してくれるその姿が信じられなかった。「一人でゆっくりしたい時はないのだろうか?」そう思ったりもした。  
 だが,ある日ふと周りを見渡した時・・毎週当たり前のように礼拝のプログラム表を作り「ハロー!」と笑顔で渡してくれる人,プロジェクターで皆が歌う曲の歌詞を分かりやすく映し出してくれる人,駐車場の案内をする人,いつも教会の周りを掃除しながら挨拶してくれる人,子供達の面倒を見てくれている人・・・今まであまりにも自然すぎて,気に留める事すらなかった沢山の人達の姿が,初めて私の心に入ってきた。もちろん皆お金をもらっている訳ではなく,日曜以外はそれぞれ自分の仕事をしている。  
 今まで完全に「自分中心」で生きてきた私にとって,その人達の姿はあまりにも衝撃的だった。疲れている事もあるだろう。体調が悪い時もあるだろう。それでも自ら「人の為に働き続ける」事が出来るのは,何故だろうか? 私は,「その人達が信じているもの・満たされ続けている理由」を知りたくなった。今までどんなに美味しいものを食べても,どれだけお金を費やして欲しい服を手に入れても,それは一時の満足であって,満たされ続ける事は決してなかった。「彼らが持っていて,私に無いもの」は何なのだろう?それを知りたくて,私は初めて「日本語礼拝」に出席した。  
 
 日本語礼拝は,さすがに私にもよく分かった。(笑)しかし,その内容をすぐに理解するのは困難だった。
  ―イエス・キリストは,預言されて生まれた神の子(神がこの世の為に送られた一人子)であり,私達人間の罪(嘘,陰口,恨み,妬み,責任転嫁・・等の汚い思い)の為に犠牲となり身代わりとなって死んでくださった。そして3日目に甦られた―
 この話,「信じますか?」と言われた所で,私は正直戸惑った。人間の常識からするとかなり有り得ない話である。それでもここでは,大の大人(よりによって一番立派そうな牧師先生)が普通にこう語られるのだ。しかも,物語としてではなく,歴史上の事実として。日本ではまだ少ないが,世界にはこれを信じているクリスチャンが沢山いるというからその方がびっくりである。
 だが,そこで話す牧師先生や,教会で触れ合う一人ひとりが嘘をついている(この人達の信じているモノが「偽物」である)ようには,私には不思議と思えなかった。そしてある日,一つの考えが頭をよぎった。もしも「人間の考え」自体に「限界」があるとしたら,この話を完全否定するのはどうだろう・・?例えば今,震度8の地震がいきなり起こったら,私に何が出来るだろう?―――答えは「何も出来ない」である。私だけでなく,一瞬にしてそこにいる全員が何かの下敷きとなるであろう。人間とは無力なものなのだ。だが「自分の力ではどうする事も出来ない」そう認めた時,多くの人はとっさに「神様,助けて!」心の中でそう叫ぶのではないだろうか?  
 世界のベストセラー「聖書」には,「初めに,神は天地を創造された」と書いてある。「自分には出来なくても,神様なら何でも出来る」のだ。私達日本人も本当は,頭ではなく,もっと深い部分でその事を自然に感じ取っている人も多いのではないだろうか?そして,その神様(イエス)が本物だとしたら,私がまだイエス様を全く知らない頃から日々必要なものを与え,守って下さっていた事に感謝と驚きを感じずにはいられなかった。  
 その時,私の中で初めて「見返りを求めず人の為に働き続ける人達」の姿と,主イエス・キリストの姿が重なったのだ。見返りを求めない「本当の愛」,それをいつも与えられている事に気付いたからこそここにいる皆が満たされ続けているという事,そして今も2千年前も,私達人間が誰でも元々持っている汚い気持ち(罪)は変わってはいない事が分かった。
 「私の事を知っていても,知らなくても守ってあげる。だって私は,あなたの為に死んだのだから。」そう言って,いつも自分を守ってくれている方が,仮にでも本当にいたとしたら,皆はその方を知りたいとは思わないだろうか?それが事実であったとしても「あっそうですか。」で終わるだろうか? 私は,もし本当ならば,この「生かされた人生」の中で,その方を知りたいと思った。そして2005年12月18日,イエス・キリストを信じるクリスチャンとなった。  
 「ねぇ,お前の神様って何人?」3年前の春,私にそう問いかけた友人は,2007年春,私の夫となる。
 「神がなさることはすべて,時にかなって美しい」(聖書)