「神の愛に溶かされて」

〜特攻隊の生き残り〜 山田 忠美

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」 (聖書)

 私が生まれた時 (大正15年)、二人目の男の子に父は喜び、「自転車が3台手に入ったようだ」と言ったそうです。しかし半年後、その父は急病で世を去りました。寡婦となった母は、長姉を実家に預け、生活のためになりふりかまわず働かなければなりませんでした。時は昭和初期の大不況時代。母は農作業の合間に、1枚わずか1円ほどの畳表織りの内職をして一家を支えました。数年後、2人の姉をなんとか嫁がせることができた母は、安心と過労から肝臓を患いますが、残る2人の男の子を中学校(現在の高等学校)にいれるため働き続け、やがて内臓出血の止まらない重態に陥り、その希望を果たすことなく42歳でこの世を去りました。
  当時私は10歳。人生最初の挫折でした。母の死で、アメリカ帰りの裕福な家庭は、貧乏のどん底に突き落とされてしまいました。片目白内障、慶応生まれ完全文盲の祖母とのなかば乞食に近い生活が、数年あまり続きました。農家であったため、生きるだけの食糧はかろうじて確保できていましたが、筍が生えれば、朝昼晩筍ばかり、大根ができれば大根ばかり、腹を満たすだけのぎりぎりの食事でした。
 ある日こんな事がありました。ちょうど昼食時、一人の乞食が物乞いに門口に立ったので、祖母は今食べている飯 (麦飯)ときゅうりの漬物(糠が古くて酸っぱい)を与えたところ、乞食は「ばかにするな」と怒り、投げ捨てて去って行ってしまいました。私たちが今、食べているものなのにと、当時はケゲンな思いがしたものです。
 このような状況では、中学校進学など思いもよらず、お金のかからない官立の学校を目指しました。「親無し子」と後ろ指はさされないぞと、負けじ魂での努力が実を結び、逓信省の民間パイロット養成校に入学出来ました。ときに 15才。大空を羽ばたくための訓練は、それはそれは激しいものでした。4年間耐え抜いて、やっと民間航空人としての資格を得、世に出ようとした頃、日本はアメリカとの戦いに敗れたのでした。飛ぶ飛行機さえ無くなり、せっかく得た資格も無用のものとなりました。やり場のない無念さを抱え、草深き故郷に帰りました。人生二度目の挫折でした。
 インフレ激しい戦後のこと、70円余の退職金は数日で底を突き、つてを頼って逓信局に職を得ました。ささやかながら日々の糧を得る方法を見つけ、わずかに希望が芽生え始めたころ、終戦後援助物資を送り続けてくれていたアメリカ在住の姉と、亡き父の代わりと頼りにしていた兄が、相次いで急病であっけなく逝ってしまったのです。せっかく芽生え始めた希望の芽も、跡形もなく崩れ去り、ただ呆然とたたずむのみでした。人生三度目の挫折でした。  この世に頼るべき柱をすべて失い、「この世には神も仏も無い。己のほかには頼るべきものは一切無い。天上天下唯我独尊だ。」と心の中で叫びながら、荒れ放題の暮らしが始まりました。よくぞ勤め先をクビにされなかったものだと、今でも不思議に思います。その頃何人もの易者から、「あなたは不幸を背負って生まれてきた。 30才前後であの世行きだろう。」と言われましたが、特攻隊で二十歳の時に空に散ると決めていた命、別に惜しいとも思いませんでした。
 私のひどい荒れ方を心配した親戚が、「一度、話を聞きに来ては…」と誘って下さいました。それはキリスト教の小さな集会でした。「神も仏も無いことはこの私が一番良く知っている。まやかしを言うな、とっちめてやる。」と胸に一物を抱えて意気高く集会に参加しました。 32才のときです。  父母兄姉を早くに失い、一匹狼を気取ってはいても、心の底では相談相手を求めていたのかもしれません。そんなひねくれ人生の曲がり角でもあったのか、そこに暖かいキリストの愛があったのか、固い氷も次第に溶け始め、とっちめてやるつもりが、逆にとっちめられてしまいました。
 あれから40年、山あり谷あり、迂余曲折の苦しい現実が無かったとは決して言えませんが、神の愛と憐れみの中にはぐくまれて今日に至っています。はばからず直言した易者の予言もまったく外れ、古希を過ぎた今でも、健康でこの世の旅路を続けています。
 冒頭に掲げた聖書の言葉どおりに、世の中からは完全に放り出された者も、神は決して孤児とはされませんでした。今となっては、あの貧しかった子供時代も、挫折の連続であった青春時代も、このへそ曲がりの強情張りが神に出会うための大切な準備期間であったのだ、と懐かしく思い出されます。もちろん人間である以上不平もあれば不満もありますが、その都度祈りによって解決をいただき、かつてのように肩肘を張ることもなく平安な日々を送っています。


写真素材:ひまわりの小部屋