「自分探し」

〜失望しない人生〜 松本 厚子(主婦)

 「生きることは、キリスト。」
 聖書に書かれている言葉ですが、私は高校三年生の時にイエス・キリストというお方を救い主として信じ受け入れて神様を信じる者となりました。
 それまでの私は自分が生きる意味がわからず、中学生のころから「人はなぜ生きなければならないのだろう」と考え、自分は生きる価値のない人間に思えて悩み続けていました。そして、ただ漠然と生きている自分が虚しくて夜蒲団の中で泣くことが良くありました。でも、そんな自分をだれにも知られたくなくて、高校三年間は部活に熱中し、いろいろな友人を作る努力をしてみましたが心の中の虚しさを消すことは出来ませんでした。
 高校三年生になった時、姉を通してクリスチャンの女性と知り合い話をする機会が与えられた時、自分の悩みの解決場所が教会にあるような気がして「教会に行ってみたい」と言いました。
 教会に行き始めた時、小学校の時教会の日曜学校に行っていたことを思い出して自分の帰るべき所に帰って来たような気がしました。昔聞いたお話は何も覚えていないのに新しく聞いたお話は全てが懐かしく私の心に響いてきました。私の心の中にある罪について、そしてその罪をきれいに洗い流して下さるためにイエス・キリストは十字架にかかって死んで下さり三日目によみがえって、今も信じる者と共に生きておられるということを素直に信じることができました。六月に教会に行き始めて三ヵ月ほどで、私はこのイエス様を信じる決心をして、洗礼を受けました。
 神様を信じる者となっても私自身は何も変わっていない気がして失望しましたが、神様は私を愛して下さっているという確信によって自分が生きていることの虚しさから解放されました。神様と共に生きる者となって心が満たされたからです。
その思いは二四年経った今も変わることなく益々深まってきているような気がします。神様と共に歩んできた日々は決して平穏と言えることばかりではありませんでしたが、神様に従う歩みの中で自分の弱さや無力さとは関係なく神様の愛の中で生かされ、希望のある人生に変えられて困難な中でも自分の人生を投げ出せなくなりました。信仰を持って何年も自我との葛藤の日々が続きましたが、神様はその事を通して私を成長させてくれました。自分自身を愛することが出来ずに悩んでいた私に、ありのままの自分を受け入れることの大切さ、そして自分を受け入れた時、他の人を受け入れることが出来ると教えてくれました。私は人を愛せない人間なのではないかと真剣に考えましたが、愛することをも教えてくれました。神様はどんな時にも私と共にいて下さり、私を見守り続けていてくれたことを深く感じています。
 自分の人生を真剣に生きるようになって、結婚についても同じ信仰を持っている人をと考えてずっとお祈りして来ました。それは長い人生を同じ方向を向いて生きて行きたいという思いと共に、相手に対しても自分は神様の方向を見ているのに同じでないと失礼だと考えたからです。真剣にお祈りして待ち続けた結果、主人と出会うことが出来て七年前、広島に来ました。北海道で生まれ育ち、ずっと北海道で生きて行くだろうと思っていましたが、神様は不思議な方法で広島へと導いてくれたのです。この広島で結婚して今主人と六歳の娘と三人暮らしですが、神様を中心とした生活はとても幸せです。
 最近「自分探し」という言葉を良く聞きますが、私も中学・高校と自分探しをしていたのかも知れません。私の自分探しの旅は神様へと続いていました。神様と出会って私は、自分のあるべき姿を知り自分の居場所を見つけることが出来ました。神様の前に心から安らぐことが出来るので、私は毎週日曜日に礼拝をささげることが何よりの喜びです。私の生きる土台は神様にありますから、この土台が揺るがされない限り、私はどんな事にも耐えられるような気がしています。私自身は今でも弱い人間ですが私の弱さを包み込んで下さる神様の愛はとても大きく深いので、私の心が揺れる時にも神様の平安が私を包み、神様を信じる心は揺るがされることはありません。私はこれからも一生神様を信じる信仰を土台として神様と共に歩んで行くつもりです。これが私の真の生きる道と信じているからです。
「主を信じる者は、だれも失望することがない。」  (聖書)


写真素材:ひまわりの小部屋