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    牧師コラム


「武士道」<2016年春号>


「質問」<2015年秋号>


「リスク」<2015年夏号
      

「ふりかけ論争」<2014年クリスマス号
  
    

「自然災害」<2014年秋号
  
    

「不安の時代」<2014年春号>
  

「教会のお墓」 <2013年秋号>


「終 活」 <2013年春号>


「多数決」<2012年クリスマス号>
      

「領土問題に思う」<2012年秋号
  
    

「死とつきあう10の方法」<2012年5月(召天者記念礼拝)>
  

「デフレの原因?」 <2012年春号>


「長いトンネル」 <2011年クリスマス号>


「乱」 <2010年クリスマス号>


「新しい革袋」 <2009年クリスマス号>


「お笑いブーム」 <2009年夏号>


「お 金」 <2008年クリスマス号>


「ひきこもりの国」 <2008年秋号>


「不安な夜に」 <2007年クリスマス号>


「誠 実」 <2007年秋号>


「がんばれ!家族」 <2007年春号>


「いじめ」 <2006年クリスマス号>


「スピリチュアル」 <2006年秋号>


「子どもの天国」 <2005年クリスマス号>


「戦国時代のクリスマス」 <2004年クリスマス号>


「愛し方が分からない」 <2004年春号>


「星に願いを!」 <2003年クリスマス号>


「わたしはよみがえりである。」 <2003年春号>


「貧しい人々は、幸いである。」 <2002年クリスマス号>


「キリスト聖誕二千年」 <2000年クリスマス号>


「人生のレース」 <2000年秋号>


「思い悩むなY2K!」 <1999年クリスマス号>


「根 本 治 療」 <1999年秋号>


「過去からの解放」 <1998年クリスマス号>


「鰯の頭も?」 <1998年秋


「病める子どもたち」 <1998年春号>


「この世を照らすまことの光」<1997年クリスマス号>
      

「人生の収穫期」<1997年秋号>
  

「人生はやり直せる」 <1997年春号>


「クリスマスプレゼント?」 <1996年クリスマス号(創刊号)>





 
「武士道」<2016年春号>





 
「質問」<2015年秋号>




 
リスク
2015年夏号


 
ふりかけ論争
2014年クリスマス号

 
自然災害
2014年秋号

 
不安の時代
2014年春号

 
教会のお墓
2013年秋号




 
終 活
2013年春号

 
多数決
2012年クリスマス号

 
領土問題に思う
2012年秋号


 最近,二つの島(々)をめぐる領土問題が深刻化している。中国国内では大規模な反日デモが行われたり,日本製品の非売運動が起こったり,と喧しい。韓国でも,反日感情を再燃させかねない,と心配されている。言うまでもないことだが,北方領土問題は依然として解決に至っていない。

 世界でも,大きなものだけで何十という領土問題があり,様々な形で(戦争含む)争っている。当たり前のことだが,そもそも地球上に国境はない。地球は誰のものでもなく,すべての人の共有の財産である。ウィキペディアによると,1648年の「ウエストファリア条約」以降,国と国を隔てる境としての国境が明確化されたそうだ。つまりは国境なるものを人間が扱いはじめて,まだ四百年も経っていないのである。

 私は,どこに国境があるか(どこまでが自国の領地か)を争う前に,あるいは争うと同時に,国境という制度そのものについて考え,議論する必要があると思う。事実,あまり知られてはいないが,「国境学」なる学問も存在している。国境をめぐる紛争により,その地域を獲得する以上の損失を被る場合だってある。誰の所有かを争う前に,争うことが両国の利益になるかどうか考える人はいないのだろうか。

 キリストはこのように言われた。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

物事を正しく見極める「目」が澄んでいなければ,全体を正しく導くことはできない,という意味であろう。

私たちの「目」にも,あまりにも多くの情報が入り込み,濁ってしまうことがあるのではないだろうか。小さな島の所有権をめぐる争いで,何千年にも亘って影響し合ってきた隣人どうしが憎み合うことになれば,それこそ最大の損失だと思う。澄んだ目で眺めていたい。






 
死とつきあう10の方法
     
2012年5月(召天者記念礼拝)

メッセージ動 画


 聖書「コヘレトの言葉」から
                             

@死はすべての人に等しくやってくる

  賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。

  やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。

  賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。(2: 16)

A死は人間も生き物であることを教える

  人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も
  動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、
  これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところは
  ない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては
  塵に返る。
 (3:18-20)

B死ぬ時は神が定めておられる

  何事にも時があり 

  天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

  生まれる時、死ぬ時

  植える時、植えたものを抜く時 (3:1-2)

C誰にも死を支配できない

  人は霊を支配できない。

  霊を押しとどめることはできない。

  死の日を支配することもできない。

  戦争を免れる者もない。

  悪は悪を行う者を逃れさせはしない。 (8:8)

D生きる苦しみがないことにおいて,死は生より幸いである

  既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
  いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を
  見ていないのだから。
(4:2-3)

  事の終りは始めにまさる。 (7:8)

E死んだら何もできなくなる

  命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。

  犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。

  生きているものは、少なくとも知っている

  自分はやがて死ぬ、ということを。

  しかし、死者はもう何ひとつ知らない。

  彼らはもう報いを受けることもなく

  彼らの名は忘れられる。 (9:4-5)

F死ぬ時は何も持って行けない

  人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。 来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を
  何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じよう
  に、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
  (5:14-15)

G死に様が大切

  人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。

  しかし、長生きしながら、財産に満足もせず

  死んで葬儀もしてもらえなかったなら

  流産の子の方が好運だとわたしは言おう。 (6:3)

H常に死を身近に置く

  名声は香油にまさる。

  死ぬ日は生まれる日にまさる。

  弔いの家に行くのは

  酒宴の家に行くのにまさる。

  そこには人皆の終りがある。

  命あるものよ、心せよ。

  賢者の心は弔いの家に

  愚者の心は快楽の家に。  (7:1-4)

I死後,霊は神に帰る

  塵は元の大地に帰り、

  霊は与え主である神に帰る。 (12:7)






  
デフレの原因?
2012年春号

 330日付の朝日新聞に「お金は神様じゃない」と題したインタビュー記事が載っていました。答えておられるのはデフレ理論の第一人者,内閣府経済社会総合研究所所長の小野善康さんです。小野さんは現在の不況は「人々がお金を神のようにあがめていることが原因」であり,先進国に共通する病理だと指摘しておられます。

 モノに満ちあふれてしまった社会では,モノへの欲望が薄れてしまったので,交換手段であるお金を使うことが減ってしまった。だから,いくら金利を引き下げ,税金をジャブジャブ使っても,お金は回転せず,どこかに貯めこまれてしまう,といいうのです。一方で,超高齢化社会の到来によって将来への不安は高まり,当然お金を蓄えておくことで安心を得たいと誰もが考えています。お金こそが人生のより所,お金こそが神様になっている,というのが小野さんの考えです。使われないお金たちは自ら増殖することを狙って投機という名のマネーゲームにつぎ込まれるため,原油などの高騰を招いています。

 では,お金を蓄えておくことで本当に人間が幸せになれるのでしょうか。確かに少しの安心を得ることはできるでしょう,しかし,それは将来の不安を軽くしているだけで,今日幸せを感じているわけではありません。イエス・キリストは「受けるよりは与える方が幸いである」と言われました。つまり「貯めるより遣う方が幸いだ」ということです。消費税を10%にするより,遣わないお金に税金をかけるというのはどうでしょう?絶対無理でしょうね。なぜならこの国を動かしている人たちはみんなお金持ちですから…






  
長いトンネル
2011年クリスマス号


 3月に起こった「千年に一度」と言われる大震災とそれに伴う原発の事故は,東日本の沿岸部に計り知れない被害をもたらし,今も多くの人たちに先の見えない戦いを強いています。私も,5月に,スクールカウンセラーとして生徒たちの心のケアをするため,岩手県大槌町の中学校に派遣されました。そこに人の営みがあったとはとても想像できない,文字通り何もなくなってしまった町でした。ほとんどの生徒が家族や親戚を失っていましたが,隣町の中学校に間借りして,一生懸命に学び,クラブ活動に汗を流していました。しかし,重いPTSD症状が現れている生徒もいました。彼女の親友が津波に流され,亡くなったと言うことでした。彼女は「海を見るのもイヤ,海から捕れる物を食べるのもイヤ」と言いながら,悲しみに耐えていました。担任の先生は,亡くなった生徒の席に手向けた花をいつまで置いておくべきか悩んでおられました。

 私は「心のケア」のために派遣されたのですが,次々に語られる悲しい記憶に愕然とし,ただただ耳を傾けていました。カウンセリングの基本である「共感」という言葉が,単なる幻想に過ぎないことを思い知らされました。人には人の悲しみを癒すことはできません。寄り添えると思えることも傲慢なのかもしれません。しかし,毎日のように訪れる著名人や芸能人の「慰問」に辟易しながらも,校長先生が言われた言葉が忘れられません。「悲しみは自分たちの力で乗り越えなきゃいけない。でも,皆さんが助けようとして下さる姿は,どれだけ続くか分からない長いトンネルの先に見える光です。」どんなに微力でも,支援の働きを続けなければならない,と自分に言い聞かせる今日この頃です。





  
2010年クリスマス号

 早いもので,2010年も終わろうとしています。今年は皆さんにとってどんな年でしたか。何事もなく,穏やかに過ごされた方もいれば,激動の年だった方もあるでしょう。日本漢字能力検定協会が,1212日に「今年の漢字」を発表します。昨年は民主党政権の誕生などもあり,「新」という漢字が選ばれました。今年の漢字を私なりに選ぶとすれば,「乱」という漢字を選びます。政治も経済も教育も,あらゆる領域に於いて秩序が失われ,収拾がつかないほど乱れてしまっているように感じるからです。毎年(「のように」ではなく)国の指導者が替わり,世界の笑いものになっています。世界一の経済大国を目指したこの国が,今では世界一の借金大国です。世界一の教育水準を誇っていたのに,今では座って授業を聞かせることに先生たちは四苦八苦しています。

 どうしてこんなふうになったのでしょうか。私は「目標を失ったから」だと思います。何に向かって国を治め,何を目指して働き,何のために教育を受けるのか,誰にも分からないことが,現在の混乱を招いている最大の原因ではないでしょうか。

 新約聖書ヨハネの福音書に,「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」という言葉があります。「光」とはイエス・キリストのことです。キリストの教えは2000年間,変わることなく世界を照らしてきました。その教えの一つに「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉があります。有り余るほどの富を手に入れたこの国は,与えることなく抱え込み,腐らせてしまったのです。今こそまことの光に照らされて,すべての人を幸せにする目標を手に入れたいものです。






  
新しい革袋
2009年クリスマス号

 民主党による歴史的政権交代が行われ,この国も少しは良くなっていくのかなあ,と期待して毎日のニュースを見ていますが,選挙前の目論見通りには行っていないようです。海の向こうでも,「チェンジ」を合い言葉に黒人初の大統領となったオバマさんがけっこう苦労していると報じられています。あらためて政治の複雑さ,また,何かを変えていくことの難しさを感じます。

 かつて英国の歴史学者・政治学者であるパーキンソンは,経済や組織が抱える問題点を「法則」として発表しました。そのうちの一つに,「拡大は複雑化を意味し、組織を腐敗させる」という法則があります。国家公務員だけで約66万人,特別会計も入れると200兆円を超える国家予算を動かす「国」という巨大組織は,誰にもその全貌が分からないほど複雑化し,様々な腐敗が蔓延する「化け物」となってしまったようです。しかしこうなってしまった責任は,官僚にあるわけでも,自民党にあるわけでも(民主党の中心人物はかつてはほとんど自民党だった)ないと思います。彼らに依存し,彼らを選んだのは他ならぬ私たち一人ひとりだからです。

 聖書に,「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」という言葉があります。発酵中の「新しいぶどう酒」は炭酸ガスを出すので,柔軟性のある「新しい革袋」に入れないと,革袋が破れてしまうのです。ではこの国に必要な「新しい革袋」とは何でしょうか。もちろん新しい政治や,組織の改革も必要でしょう。でもそれ以上に,お金こそが人を幸せにするという拝金主義や,自分の責任は棚上げにして誰かを悪者にする責任転嫁という「古い革袋」を捨て去り,本当の幸せを自分の責任で築いていくための「新しい革袋」を手に入れるべきではないでしょうか。






  
お笑いブーム
2009年夏号

 お笑いブームである。もうウンザリするほどお笑いタレントがテレビ番組に登場する。それも,「他にネタはないの?」と突っ込みたくなるほど,同じネタばかりである。それでもついつい観てしまう。

 日本は世界に誇れる笑いの文化を持っている。落語である。江戸時代に始まり,数百年にも渡ってその基本的なスタイルを変えずに受け継がれてきた素晴らしい伝統文化である。私はちょっとした落語のコレクターで,昭和の名人と言われた圓生や志ん生に始まり,惜しまれつつ世を去った枝雀から志ん朝などのテープやレコードをけっこう持っている。テレビやラジオのない時代,落語は庶民の笑いの中心だった。今でも寄席(一日中落語などをやっている場所)や落語会などで本物に触れることができるし,テレビでも時々放映されている。落語を題材にしたテレビ・ドラマや映画が一時はやり,落語がちょっとしたブームになったこともあった。しかし,昨今のお笑いブームにはとうていかなわない。なぜなら落語は簡単に笑えないからだ。40分聞いてようやく最後にクスリッと笑うような噺がごろごろある。背景となっている生活や文化を知らないと何でおかしいのか分からないような噺もある。でも,今も昔も人々が笑いを欲してきたことに変わりはない。

 イエス・キリストも笑い(ユーモア)を愛された。気の短い弟子に「雷の子」というあだ名を付けたり,偽善的な宗教家たちを「白く塗った墓」と揶揄したりもした。人を裁いてはならないと教えられたとき,「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」と言われたが,ユーモアの中にグサリと突き刺さる真理が隠されている。

 「笑う角には福来たる」と言うが,粗製濫造される「お笑い」ではなく,いつまでも心に残る爽やかな笑いが欲しいなあと思うのは私だけだろうか。

 「神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。」(旧約聖書)





  
お金
2008年クリスマス号


 いろいろなことがあった2008年も終わろうとしています。わが国では,後期高齢者医療制度や消えた年金記録問題など,高齢者の生活を脅かす出来事が続いています。世界では,原油高騰・サブプライム問題・株価急落などなど,経済が大きく揺れ動きました。経済が世界規模で連動しており,誰もその動きをコントロールできなくなっていることがよく分かった年でもありました。いずれにせよ,私たちの生活の基盤である経済,すなわちお金にまつわる不安がにわかに高まった年と言えるでしょう。

 そもそもお金とは人間の生活を円滑に進めるための道具に過ぎませんでした。物と物とを直接交換する代わりにその価値をお金に置き換えてやり取りしたのが始まりと言われています。しかし,いつの頃からかお金そのものが一人歩きを始め,人間がお金を使うのではなく,人間がお金に支配されるようになってしまいました。2007年,世界中で武器を購入するために使われたお金は約135兆円に上るそうです。世界の紛争は武器を売るための演出だという人もいます。戦うために金を使うのではなく,金儲けのために戦いを作っているのです。金が金を生み,金が金を奪う。マネーゲームは子どもたちの世界にまで入り込んでいます。人間が作り出したお金という魔物に,人間が食い殺されようとしているのです。

 お金の暴走を止められなくなった現代,私たちはどうすればよいのでしょうか。イエス・キリストはこう言いました「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」富とはもともと不正にまみれたものであることを鋭く指摘した上で,富の正しい使い方をキリストは教えています。「友達を作りなさい」とは何とも悠長な命令のようですが,実はお金の正しい使い道なのです。自分のために貯え,使おうとするから金は醜く恐ろしい,でも誰かのために使うなら永遠の世界に我々を導く道具にさえなるというのです。クリスマスにはピッタリの教えですね。






  
ひきこもりの国
2008年秋号


 
「ひきこもり」と呼ばれる若者が,現在日本には50万人いるとも100万人いるとも言われています。ひきこもりの親の会の調査では,昨年,ひきこもりと呼ばれる若者の平均年齢がはじめて30歳を越えたと言われており,本人とそれを支える家族の高齢化が新たな問題として浮上しています。この問題に全くといってよいほど関心を示さなかった国でしたが,厚生労働省が全都道府県と政令指定都市に相談窓口を設置することにした,と発表しました。しかし,予算はたったの5億円。1箇所当たり1千万円にも満たない少額です。防衛費の1万分の1に過ぎません。

 国が積極的な支援に乗り出さないのにはわけがあります。ひきこもりは,わがままだとか怠惰,あるいは親が甘やかしているからだ,といった無理解が相変わらず政治家の共通認識だからです。本当にそうなのでしょうか。確かに,食べる物も住む所も十分ではなかった時代には,誰もが否応なく働かなければなりませんでした。しかし,物質的に満ち足りてしまった今,働かないという選択肢を若者たちは手に入れたのです。また,社会不安障害や発達障害など,これまであまり知られていなかった社会に出ることを妨げる心の病気や障害も多く見受けられるようになっています。

 このような状況を,ただ若者だけの現象ではなく,日本全体の病理として警鐘を鳴らしている人がいます。マイケル・ジーレンジガー氏という長年アメリカメディアの日本駐在員をしているジャーナリストです。彼は日本全体を「ひきこもりの国」と呼び,若者のひきこもりは日本が世界に対してひきこもっていることの象徴的出来事,と分析しています。特に,バブル崩壊後の日本が,市場開放をはじめとして世界に向かって門戸を開くことを求められていながら体質の抜本的な構造改革を拒み,相変わらず旧態依然とした保守的な態勢にひきこもっている,と断じているのです。一方お隣の韓国も日本型経済に倣って急激な経済成長を遂げ,結果としてバブル崩壊を迎えたのですが,国家一丸となって体質改善に努め,新たな成長に向かっている,というのです。ジーレンジガー氏はユダヤ人ですが(そう自ら強調しながら),韓国の変身の陰にはキリスト教の影響を見逃せない,と指摘します。韓国にはひきこもりと呼ばれるような若者はほとんどいないそうです。

 先人の築き上げた遺産をひたすら自らのためだけに使い,小さな島国に閉じこもってインターネットで情報だけ手に入れている。そしてただただ歳ばかり取っていく。こんな国にいて,若者がはつらつと生きていくことができるのでしょうか。






  
不安な夜に
2007年クリスマス号

 異常気象,年金問題,原油の高騰,食品の偽装・・・。今年も私たちの生活をおびやかす問題が,次々に起こりました。インターネットは世界中にはりめぐらされ,ロボット犬が人間の友だちになる時代になっても,私たちが安心して暮らせる世界はどんどん遠ざかっているような気がします。地球のこと,家族のこと,仕事のこと,学校のこと,そして自分自身のこと,これからどうなっていくのだろうと考えると,どうしても不安になります。

 2000年前,イスラエルのとある田舎町の郊外で,羊の番をしながら野宿していた羊飼いたちも,私たちと同じように不安な夜を過ごしていました。ローマ帝国による支配,重い税金,横行する夜盗・・・。彼らもこれからどうなっていくのだろう,とたき火を囲みながら話していたことでしょう。そんな時,天使が現れ「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と告げたのです。そして,その子は飼い葉桶に寝かされているというのです。彼らは非常に恐れましたが,本当にそんな赤ちゃんがいるかどうか探しに行き,マリアとヨセフ,そして飼い葉桶に寝かされていたイエスを見つけたのでした。

 このイエスはやがて,多くの奇跡を行い,人々に本当の幸せを教える人となり,悲しんでいる人を慰め,虐げられている人々の友となりました。しかし,最後は十字架にかけられて殺されたのでした。人々が願っていた不安は何も解消されなかったのです。ところが,イエスは死後3日目に復活し,弟子たちにその姿を現しました。そして,大切なのは目に見えているものではなく,見えていないものである,と教えられたのです。見えているものに頼っているから不安になる,見えないものに頼るならどんなことが起ころうとも決して不安になることはない。イエスは不安な夜を過ごしているすべての人々に,そう語りかけ,いつまでも伴ってくださいます。





  
誠実
2007年秋号

 少し古いですが、ビリー・ジョエルが「オネスティー(誠実)」という歌を歌っていました。「誠実。なんと寂しい言葉よ。めったに聞かなくなってしまった…。」1979 年の曲ですが、何だか最近この歌が心の中のスピーカーから聞こえてきてなりません。年金記録の紛失に始まり、年金保険料の横領、建築会社や食品会社の偽装、政治家の不正経理、などなど数え上げれば切りがありません。この手の事件があまりにも多すぎて、少し前のものを忘れてしまうほどです。

 一連の出来事に共通するのは、明らかな犯罪というよりも、「バレなければいい」という出来心的な違反行為であるという点です。おそらく最初はちょっとだけやってみて、うまくいったのでそれが常習化し、ついには組織や企業ぐるみで手を染めていったのではないでしょうか。もちろんこのようなことは以前からあったのでしょうが、最近目立って増えているように思えてなりません。

 「バレなければいい」という発想の根底には「誠実」という精神の欠落があります。日本はかつて「信用・信頼」を第一とする国でした。細かい規定を作らなくても、間に弁護士がいなくても、互いの誠実さを前提として信頼し合ってきたのです。しかしいつのまにか誰も何も信用できない国に成り下がってしまいました。

 聖書の中に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」という言葉があります。「霊」とは聖書の教える人間の一番中心的な部分のことです。つまり、これらの品性は、人間の心よりももっと深い部分に、人生の歩みと共に実らなければならない、と教えているのです。金こそすべての世の中で、私たちは人として大切なものをどこかに置き忘れてしまったようです。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。<聖書>






  
がんばれ家族!
2007年春号


 今,日本の家族が危機にひんしています。

 まず家族が生まれません。1970年には年間100万組を超えていた結婚数が,70万組を割り込もうとしています。一方で離婚数は年間30万組に近づいています。せっかく生まれた家族の40%が壊れてしまう計算です。また,1980年には20%以下だった一人世帯は,増加の一途をたどり,2007年には「夫婦と子どもからなる世帯」を割合で追い越し,最も多い世帯の類型になるそうです。日本人はどんどん一人で暮らすようになっているのです。少子化はもちろん大きな問題ですが,子どもが生まれ育ってゆくためのゆりかごである家族がなくなっていくことこそもっと深刻な問題です。

 ではなぜ日本から家族が減っているのでしょうか。ライフスタイルの変化,価値観の多様化,個人主義の進行などいろいろな原因が考えられるでしょうが,私は日本人が人間関係を造り上げ,維持するための「心の力」が弱くなっていることが原因ではないかと思っています。人と深く関わるためには忍耐力,配慮や思い遣り,愛情や犠牲精神など様々な「心の力」が必要です。夫婦や親子など家族の関係は一生続く親密なものですからなおさらです。では「心の力」を育ててくれるのはどこでしょうか。もちろん家族です!

 聖書には,神は人を男と女に創造したと記されています。つまり神は家族を形成することを前提として人を造られたということです。それは,人が人によって成長し,研かれてゆくためです。家族を形成することは決して容易いことではないけれど,その困難さを背負ってこそ人は「心の力」を身につけることができるのです。そして,「心の力」によってこそ,人は本当の幸せを感じることができるのではないでしょうか。

 次の世代の人々が,また新しい家族を作り出す「心の力」の力を蓄えることができるように,私たちがそれぞれの家族を大切にし,互いに力を併せてすてきな家族を作っていこうではありませんか。

  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
    これがわたしの掟である。」<キリスト>






  
いじめ
2006年クリスマス号


 いじめを苦に自殺する子どもが後を絶ちません。何と悲しく痛ましいことでしょうか。先生や学校側の対応が不誠実であるとか,教育に携わる組織の問題であるとか,まるで犯人捜しのような報道が連日続いていますが,これはマスコミと視聴者である私たちの教育関係者に対するいじめに他なりません。その犠牲となって今度は先生たちが苦しんでいます。目を国に転じると,今年の10月から「障害者自立支援法」が施行されました。この法律は「障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができる」ことを目的としていると言いますが,実際は障害者の経済的負担を重くし,自立どころか生活そのものを危うくする法律で,まさしく国による障害者いじめです。

 こんな国の大人たちが「弱い者いじめをするな」と子どもたちに言って,はたして効き目があるでしょうか。

 私たち大人も,知らず知らずのうちに誰かをいじめてしまっているかもしれません。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」とキリストは言われました。誰かを非難する前に,まず自分自身の反省から始めなければなりません。人を変えようとする前に,自分が変わらなければならないし,自分を変えようとするとき始めて本当の問題が分かるのではないでしょうか。

 イエス・キリストは,社会的弱者と徹底的に寄り添った人でした。一緒に差別を受け,一緒に飢え渇き,一緒に苦しみました。そして誰も責めることなく,むしろその責めを自分が一身に背負って殺されました。クリスマスは彼が生まれた日です。世界中でこの日が祝われているのは,人の痛みを本当に分かってくれる人の誕生日だからです。派手な電飾や豪華なプレゼントより,心暖まる言葉が町に溢れる日になりますように。

 「親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。」(旧約聖書)






  
スピリチュアル
2006年秋号

 最近、「スピリチュアル・カウンセリング」や「スピリチュアル・ペイン」など「スピリチュアル(spiritual)」という言葉をよく耳にするようになりました。先日も、あるお寺の住職から「仏教でも『スピリチュアル』という言葉を使うようになったのだけれど、本家はキリスト教だろうからこの言葉の意味を教えて欲しい。」というメールをいただきました。  

 本家がキリスト教かどうか定かではありませんが、「スピリチュアル」(霊的)とは心のさらに奥底の部分、すなわち人間の存在そのものを支えている部分のことを意味する言葉ではないか、とお答えしました。日本語で「霊」というと、「霊魂」とか「魂」という意味 に取られがちですが、決してそのような「えたいの知れない領域」のことではありません。  

 この言葉が注目されるようになったのは、1999年のWHO(世界保健機構)総会において、これまでの3つの健康定義(体の健康、精神的な健康、社会的な健康)に、4つ目として「スピリチュアル・ヘルス」(霊的な健康)を追加すべきだという提言がなされたことがきっかけのようです。最終的には、必ずしも追加は必要でないという結果になりましたが、それ以来「スピリチュアル・ヘルス」という考え方への注目は高まっています。  

 物質的な豊かさを手に入れ、心も体も健康になったけれど、何か物足りない。生きている実感がない、生き甲斐が感じられない、そんな「そこはかとない」不全感のようなものを現代人は感じているのではないでしょうか。ニートやフリーターと呼ばれる若者たちは、 日本人全体の「スピリチュアル」な不健康さの象徴かもしれません。  

 イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われました。つまり、人間というものは物質的にあるいは肉体的に満足しても決して幸せではない。「神の口から出る一つひとつの言葉」すなわち聖書の言葉によって「スピリチュアル」な渇望を満たされなければならない、と教えられたのです。人間はなぜ存在し、何のために生きて行くのか、聖書の中に答えはあります。





  
子どもの天国
2005年クリスマス号

 少子化が深刻な社会問題になっている昨今ですが、託児環境の悪さや、子育て費用の高騰ばかりが原因ではありません。安心して子どもを産み育てることが出来る環境とはほど遠いのです。
 今年も、親がわが子に暴力を奮ったり、育児を放棄したりするいわゆる「幼児虐待」のニュースが途切れることはありませんでした。むしろ日常化してあまり驚かなくなっているほどです。無事に大きくなっても、学校での「いじめ」や、学校に行けなくなる「不登校」 の不安が親にはつきまといます。「不登校」が長期化すると「ひきこもり」という日本特有の病気(?)の陰におびえなければなりません。毎日機嫌良く登校しているので安心して父兄参観に行ってみたら、「学級崩壊」で全く授業になっておらず驚きあわてます。教師たちも、深刻な問題に直面すると辞めたり異動になったりして頼りになりません。何とか学校を卒業し、立派な社会人になってくれるのかと思ったら、定職に就かず「フリーター」になり、親をやきもきさせ続けます。あるいは、学校を出ても働かず親の臑をかじり続ける「ニート」なる人種?となって子どもを卒業できません。生まれてくる子どもにとっても育てる親にとっても何と困難な状況でしょうか。まさに「茨の道」です。こんな環境で子どもを育てろという方が間違っているような気がします。

  なぜこんなことになってしまったのでしょうか。それは、戦後私たちが国家や大人社会に都合の良い子どもを創り出そうとした結果ではないでしょうか。子どもたちの無限の可能性を引き出すことより、経済社会の歯車になることを強要したことへの「しっぺ返し」を受けているように思えます。

  イエス・キリストは「天国は子どもたちのものだ」と宣言し、大人よりも子どもたちを大切にしました。クリスマスには、プレゼントを買い与えるだけではなく、子どもたちがのびのびと希望を持って生きてゆける天国をどうすれば築いてゆけるのかじっくり考えてみましょう。





  
戦国時代のクリスマス
2004年クリスマス号

 日本での最初のクリスマスは、お隣の山口県山口市で1552年12月に祝われたという記録が残っています。当時クリスマスはナタラ(ポルトガル語でその意味は「誕生」)と呼ばれていました。山口は大内よしたか義隆の領地でキリスト教伝道が公認されていたため、領内ではキリスト教が急速に広まっていました。入信したキリシタンたちは12月24日司祭館に泊り込みで集まり、一晩中聖書物語が朗読されるのを聞き、ラテン語で賛美歌が歌われました。最後に参加者は費用を出し合って食事を作り、全員が一緒に食事をする(最初のクリスマス・ディナー!)と共に、キリシタンでない貧しい人々にも食事が振る舞われたということです。

 戦国時代にクリスマスが祝われていたことも驚きですが、参加者が共に食事をしてイエス・キリストの誕生を喜び、貧しい人々にもごちそうしたということにさらに驚きます。フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられて3年後の日本に、「受けるよりも与える方が幸いである」というイエスの教えが根付いていたということでしょう。 今年は、台風や地震などの大きな自然災害に襲われ、多くの方々が被災し、今も困難な状況におかれています。しかし、こんなときだからこそ、お互いの助け合いのありがたさ、人の善意や温もりの大切さをしみじみと感じます。


 「愛は与えることである」というのが聖書の一貫した教えです。そもそもクリスマスは、神が私たち人類を愛のない世界から救い出すために一人子なる神イエス・キリストを地上に送られたことを記念する日です。人と人の絆や信頼が薄れ、それぞれ自分勝手に自我実現に向かっている世相です。人間にとってもっとも大切なものは何なのか、クリスマスツリーを飾りながら考えてみましょう。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。    
   独り子を信じる者が一人も滅びないで、    
     永遠の命を得るためである。」 
            ~聖書のことば ~





  
愛し方が分からない
2004年春号

 最近テレビで、「自分の子どもなのに愛し方がわからない。まず、子どもを抱きしめてあげて下さい。」という、公共広告機構のCMが流れています。わが子とどう接すればいいのか分からない親たちが増えていると聞いてはいましたが、テレビで促されなければ「抱っこ」さえできない親がいるということは驚きを通り越して悲しみさえ感じます。そのCMは「人は愛された記憶があるから、人を愛せるのだと思う。」と語りかけます。わが子が誰かを愛することのできる人になるために、まず親が愛そうではないか、という訴えなのでしょうか。でももし愛された記憶によって誰かを愛するのなら、わが子を愛せない親こそ、その親から愛されなかった犠牲者、ということになってしまいます。この「愛の犠牲者」という悪循環を断ち切らなければ、今問題になっている育児放棄や幼児虐待を無くすどころか、減らすことさえ難しくなるのではないでしょうか。

  聖書には、私たちの創造主である神の言葉として、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」と記されています。本来親にとってわが子は世界中の何よりも大切で愛おしいものですが、神は私たちひとりひとりをわが子のように愛して下さっている、というのです。人間の愛はしょせん不完全ですから、誰かをきちんと愛することはたとえわが子であっても非常に困難な作業です。しかしもし、私たちを創造された神の変わることのない愛を感じることができたら、誰かを愛する原動力としてこれほど心強いサポートはありません。そしてここにこそ「愛の犠牲者」という悪循環を断ち切る唯一の道があるはずです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」




  
星に願いを!
2003年クリスマス号

 今年話題になったものの一つに火星があります。夏の終わり頃、南の空に赤く輝く星は美しくそして神秘的でした。にわか天文マニアが増えて、天体望遠鏡が品薄になったそうです。

  聖書によると、イエス・キリストが生まれた今から約二千年前頃、中近東でも大変明るい星が夜ごとに現れ、人々の関心事となっていました。夜空の異変は地上の異変の予告であると思われていた頃ですから、単なる天体ショーにとどまりませんでした。特に、占星術が重んじられ、国の活動をも左右するほどであったバビロニア(今のイラク辺り)では、西の空に現れた特別な星を「偉大な王の誕生」と考えました。そして、占星術士たちが高価な贈り物を携え、星を頼りに何千キロも旅をしてイスラエルにやってきて、飼い葉おけに眠るイエス・キリストに出会ったというのです。  

 インターネットで世界中の情報がリアルタイムでやりとりされる時代になりましたが、明日が読めない状況にかわりはありません。それどころか、世情はますます混迷の度合いを深め、何が正義なのか、何を信じればよいのか、どこに向かってゆけばよいのか、誰にも分かりません。起源前7年に木星・土星・火星の直列、前12年にハレー彗星、前5年に新星爆発があったことなどが天文学的に報告されています。聖書に書かれているクリスマスの不思議な星の話も、まんざら作り話ではなさそうです。
 情報という星を頼りに、暗闇の世界を旅する私たちを、迷うことなく目的地に導いてくれる星はあるのでしょうか。バビロニアの占星術士に尋ねてみたいものです。

  「その光(イエス・キリスト)は、まことの光で、
   世に来てすべての人を照らすのである。」 聖 書




  
わたしはよみがえりである。
2003年春号

 「イースター」って知っていますか。キリスト教では、クリスマスと並ぶ大切な記念日です。クリスマスはイエス・キリストの誕生日、イースターは彼が死からよみがえった日、とされています。クリスマスは日本でもすっかり市民権を得ましたが、残念ながらイースターはほとんど知られていません。

 実は、キリスト教において重要なのはイースターのほうなのです。なぜならキリスト教は、キリストが誕生したからではなく、死からよみがえったからこそ始まった教えだからです。
  確かにイエスの教えは素晴らしく価値あるものです。「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい。」とか、「受けるよりは与えるほうが幸いである。」など、世界中の人たちの生き方に影響を与えてきました。しかし彼は最後には十字架にかけられて殺されたのです。どんなに立派な生き方をしても、何も報われずに惨めに死んでいった人の教えに従おうとする人がどれほどいるでしょうか。キリストの弟子たちも、彼が十字架で死んだのを見て、自分たちも同じ目に遭うのではないかと思い、隠れたり故郷に帰ったりしたのでした。彼の教えを広めようとした者など一人もいなかったのです。

 ではなぜ今世界中にキリスト教が広まっているのでしょうか。それは、十字架にかけられて殺されたキリストが復活したからです。キリストは弟子たちの前に現れ、自分が生きていることを証明して天に帰った、と聖書は語っています。その時から弟子たちは死を恐れずキリストの教えを広めていったのです。彼らはたとえ死んでも、キリストのようにまったく新しい命を与えられてよみがえることを確信したからです。ローマ帝国時代、何千何万というクリスチャンが殉教しましたが、彼らの死は彼らの信仰の証でもあったのです。
 
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」               (キリスト)




  
貧しい人々は、幸いである。」
2002年クリスマス号

 二千年前のクリスマス、イスラエルの田舎町に生まれたイエス・キリストの言葉です。 彼の時代、イスラエルはローマ帝国の圧制に苦しみ、庶民は皆貧しく、その日の糧を確保するのに汲々としていました。庶民は自分たちをローマ帝国から解放し、腹一杯飲み食いさせてくれる救世主(キリスト)を求めていました。そこにイエスが現れ、病人を癒し、数々の奇跡を行い、弱者の友となりました。人々はこの人こそキリストだと期待したのですが、彼の教えは全く期待はずれでした。豊かにしてくれると思っていたのに、貧しさを肯定し、むしろ幸せだ、と言ったのですから無理もありません。最後はイエスに痛烈に批判され対面を失った宗教指導者たちの扇動に乗って、彼を十字架にはりつけにして殺したのです。

 イエスは死にましたが、二千年後の今でも世界中で彼の誕生を祝っています。なぜでしょうか、それは彼の教えが真理であるからに他なりません。今日本の景気は低迷し、解決の糸口さえ見つかっていません。しかし、不況だといっても餓死する人がいるわけではなく、小学生でさえ携帯電話を持っている世界有数の金持ち国家であることに変わりありません。それなのになぜ私たちは経済が右肩上がりの成長を止めたからといって不幸のどん底に突き落とされたように落胆しなければならないのでしょうか。本当に不幸なのは、幸不幸を金に支配されているこの国の構造であり、私たちの価値観・人生観にあるのではないでしょうか。株価や為替に翻弄され、一切れのパンを食べられることの幸せを失ってしまった私たちの心に、「富んでいるあなたがたは、不幸である。」というイエス・キリストの声が突き刺さります。




  
キリスト聖誕二千年
2000年クリスマス号

 イエス・キリストの降誕二千年目にあたる記念すべき年も、あとわずかとなりました。残念ながら明るい出来事の少なかったこの一年でしたが、皆様はどのように過ごされましたでしょうか。
  さて、キリストが馬小屋でお生まれになったことはよく知られていますが、なぜそんなことになったのかご存じでしょうか。

  キリストの両親であるヨセフとマリヤは、イスラエルの北部ガリラヤ地方に住んでいました。マリヤが産み月を迎えたころ、突然皇帝アウグストゥスが人頭税を課すために、住民登録をするよう帝国全土に命じたので、彼らも一族発祥の町である南部のベツレヘムに行かねばならなくなりました。

 直線距離で百五十キロもある道のりをなんとか歩ききり、ようやくたどり着いた故郷の町は、同じ理由で集まった人でごった返していました。イスラエルでは旅人をもてなすことは市民の義務とされていましたが、出産は不浄のものとされていたこともあり、この疲れ切ったあわれな妊婦に部屋を貸す心優しき人は一人もいなかったのです。キリストは、火の気のない馬小屋の、石の飼い葉おけに寝かされました。

 愛の墓場とも呼べる場所で生まれたキリストでしたが、「あなたの隣人を愛しなさい」と教え、虐げられていた人々の友となり、最期は愛なき私たちの身代わりとして十字架で死なれました。
 あなたの優しさをだれかに分けてあげることができたら、今年はきっと心暖まるクリスマスになることでしょう。「自分のことで精一杯」だなんて言わずに。



  
人生のレース」
2000年秋号

 シドニーオリンピックはたくさんの感動を残して閉幕しました。日本選手、特に女子選手の活躍が近年になく目立ったオリンピックでもありました。女子マラソンの高橋選手の快走は、暗いことの多かったこの国に差し込んだ光明のようでした。しかし、力を出し切れずにメダルを獲得できなかった選手も多く、わずか三つのメダルを争うオリンピックの難しさ、悲しさも味わいました。

  わたしたちの人生はどうでしょうか。小さいときから横一線に並べられ、「ヨーイ、ドン」で走らされていはいないでしょうか。学生時代はテストと入試というレース、会社に入れば昇進レース、子育てレース、豊かさレースなどなど、いつも誰かと比べながら生きることを強いられていないでしょうか。このレースに勝てる人はごくわずかなので、ほとんどの人は敗者意識、劣等意識を持たされ、自分の人生でありながら、満足した日々を送ることが難しくなっています。昨今心を病む人が多いのは、そうした社会構造が原因になっていると思われます。いじめや不登校などの学校問題も、横並び競争が生み出した弊害と言えるでしょう。

 使徒パウロは、人生とは「神がお与え下さる賞を得るために、前だけを向いてひたすら走ること」だ、と言いました。お互いに競い合うのではなく、それぞれが与えられた人生を精一杯走ることが大切だ、と教えたのです。私たちの創造主である神の与える評価は、人間同士を比べる相対的なものではなく、一人一人に対する絶対的なものです。ですから、人と比べて落ち込む必要はないし、落ちこぼれもありません。誰もが金メダリストになれるのです。




  
思い悩むなY2K!」
1999年クリスマス号

 来年は西暦二千年という切りの良い、おめでたい年であるにもかかわらず、コンピュータ二千年問題、いわゆる「Y2K」のせいで、「めでたさも中ぐらい」になってしまいそうです。
  銀行でお金がおろせなくなる、水や電気がストップするなどといった身近なものから、飛行機が落ちる、核兵器が発射されるなどといった大規模なものまで、「Y2K」の被害予想は様々です。政府が対策マニュアルを発表し、スーパーでは非常食を詰め合わせた二千年問題グッズを販売されています。元旦の利用者があまりにも少ないので、国内の航空会社はそろって国際線の運行を取りやめたそうです。しかし、「何が起こるかは二千年を迎えてみなければ分からない」というのが専門家の本音のようです。

  話は元に戻りますが、西暦とはイエス・キリストの誕生から何年経過したかを表しています。つまり、来年はイエス・キリスト生誕二千年に当たる年なのです。そのイエス・キリストが、コンピュータ二千年問題におびえるわたしたちにこんな言葉を残してくれました。
 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 またこんなことも言っています。
  「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

  どんなに思い悩んでも、明日のことは分かりません。明日生きているかどうかさえ分からないのです。今生かされていることを感謝し、与えられている幸せに満足することができたら、西暦二千年は皆さんにとって本当に「おめでたい」年になることでしょう。




  
根本治療」
1999年秋号

 人生に悩みは尽きません。病気やけがといった身体のこと。仕事や勉強のこと。家族や友人、職場や学校での人間関係。子育てや老後の心配。お金のこと。数え上げればキリがありません。簡単に解決できることもあれば、一生続くこともあります。


  悩みを抱えるたびに苦しみ、何とかしようともがきます。一人で考え込んだり、良い知恵を求めて雑誌や本を読んだり、誰かに相談して助けてもらったり、あるいは加持祈祷に頼ることもあります。しかし、あくまでもその悩みを解決するだけの、いわゆる「対症療法」的な解決の仕方になってはいないでしょうか。

 そもそも、なぜ人間は苦しまなければならないのでしょうか。原因は、わたしたち自身と、わたしたちが作り出した社会にあることは多くの宗教や哲学の語るところですが、聖書は、わたしたちが創造主である神から離れてしまったからだ、と断言します。神はこの世界を人間の幸福と繁栄のためにお造りになりましたが、わたしたち人間は神の秩序を拒み、自分中心の道を進み、混乱した社会を生み出してしまいました。わたしたちの苦しみは、神から離れてしまったことの証であり、自業自得なのです。しかし、実は、もう一度創造主である神のもとに立ち帰らせる警告でもあります。

  神のもとに立ち帰るならば、人生の悩みはなくなりませんが、すべてのことをご存じであり、支配しておられる神に祈り、解決をいただくことができます。そして一番すばらしいことは、どのような悩みを背負うことになっても、心の平安を失うことなく、神の救いを信じて待つことができるようになるということです。
 「対症療法」ではなく、「根本治療」が必要だと思われませんか?  

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと
  願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
  そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と
  思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 聖書




  
過去からの解放」
<1998年クリスマス号

 「眠れぬ森」というドラマが話題になっています。記憶を書き換えられた主人公が自分の過去を探るうち、次々と意外な事実が浮かび上がり、彼女を含めた周囲の人々の今の姿をくつがえしていく、というストーリーです。このドラマの中で、主人公が「過去に関係なく生きて行けたらどんなに幸せだろう」という台詞を何度も口にするのが印象的です。 私たちも、大なり小なり過去に縛られ、過去に苦しめられています。「トラウマ」すなわち「心の傷」は、その代表と言えます。子どもの頃に受けた心の傷は、大人になって心を歪め、病気や「生きにくさ」の原因になると言われています。また、自分が犯してしまった過ちは、何か不幸が訪れる度に思い出され、自分自身を責める要因となります。 トラウマを癒すためにカウンセリングにかかり、自分の過ちを清算するために加持祈祷を頼んでも、私たちは一向に過去からは自由になれません。なぜなら、過去は時間の経過と共に増加しているからです。一つの過去を清算してもまた新しい過去が私たちを苦しめるのです。


 二千年前、馬小屋で生まれたイエス・キリストは、当時の社会から差別されのけ者にされていた人々の友となり、過去の罪の結果とされていた多くの病人を癒されました。しかし彼は、まったく罪のない方であったのに、妬みに駆られた時の指導者たちの謀略によって、十字架にはりつけにされ殺されました。 彼の死は無駄死にだったのでしょうか。そうではありません、聖書にこのように書いてあります。
 「私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」 イエス・キリストは私たちの負っている忌まわしい過去という負債を清算するために、私たちに代わって死んで下さったのです。彼を信じるものは、自分の過ちを悔いて自らを責めることからも、また、自分を傷つけた誰かを責めることからも解放されるのです。聖書の別の箇所に次のように書いてあります。
  「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

  イエス・キリストを信じるなら、これまでの過去からも、これからの過去からも解放され、日々新しく生きていくことができるのです。「過去に関係なく生きていくこと」は不可能ではありません。




  
鰯の頭も?」
1998年秋号

 日本でキリスト教が嫌われる最大の理由は、その「排他性」にあります。「自分の神様だけが本物で、他の神様は偽物と決め付けるのは、キリスト教の思い上がりだ。」、とよく言われます。

 古来この国では、どんな神様でも分け隔てなくお祭りし、また、「鰯の頭も信心から」と言うように、どんなものでも信仰の対象としてきました。神様を選ぶとか、神様の真偽を問うなどということは、タブーとされてきたのです。どんなものでも神様として信仰する事が、私たち日本人の信仰深さ、と言えます。

  一方では、「縁結びの神様」「商売繁盛の神様」「学業の神様」など、神様に「得意分野」を割り当てて、時々の必要に応じて「神様の使い分け?」をしてきました。生まれた時は神社にお宮参りに行き、結婚式は教会で挙げ、お葬式はお寺で行う、ということに何の抵抗も感じません。「困った時の神頼み」という言葉が表すように、神様とは、どうしようもなくなった時や、冠婚葬祭の折りに、ちょっとだけ力をお借りする「助っ人」のような存在、と言えるでしょう。
 このような考え方は、日本では常識ですが、世界では非常識とされています。なぜなら、これでは、神様などと呼んで祭り上げてはいるけれども、結局は人間に仕える召使として従わせているからです。人間を最高位に据えているのです。人間が一番偉いのです。 人間は本当に一番偉いのでしょうか。人間の判断は常に正しいのでしょうか。この問いに胸を張って「YES」と答えられる人はいないでしょう。人間はすべての生物の中で最も進化した生き物だ、と言いながら、自然を破壊し、互いの利益のために殺し合い、友をいじめて死に追いやるような愚かな存在なのです。

 キリスト教が排他的なのは、他の神々を嫌っているからではありません。教えや効き目の異なる神々を、都合に合わせて選ぶような考え方では、個人もまた社会全体も幸せになれないからです。聖書は、徹底した「性悪節」に立ち、神を恐れ、神と人の前にへりくだる姿勢を教えています。
  指導者から子供たちまで、何が善く、何が悪いのかが分からなくなってしまったこの国に必要なのは、身勝手な判断を止め、絶対的なものを認めて、自分の中に強い排他性を持つことではないでしょうか。

  「主はあなたに告げられた。
   人よ。何が良いことなのか。

   主は何をあなたに求めておられるのか。
   それは、ただ公義を行ない、
   誠実を愛し、へりくだって

   あなたの神とともに 歩むことではないか。」 (聖 書)




  
病める子どもたち」
1998年春号

 少年がナイフで人を刺す、という恐ろしい事件が続発しています。ナイフを持ち歩いていること自体不思議ですが、むかついたりキレたりすると、友達でも先生でも警官でも、ナイフで刺してしまう心理は理解できません。しかも、このような重大事件を起こしている少年たちの多くは、普段は「普通の子」だというのですからますます分かりません。 私はYMCAの専門学校で週に一、二度授業を持っていますが、ここ数年、授業中の生徒たちの反応がどんどん弱くなり、普段も無表情になってきているように感じます。ほかの学校の先生方や、学生のカウンセリングをしておられる先生方も同じご意見のようです。学校に行けない子どもたちは増加の一途ですし、いじめも実際には減っていません。摂食障害などで悩む子どもたちも増えています。今、子どもたちの心はひどく病んでいるのではないでしょうか。

  医者や心理学者、教育学者たちが、それぞれの立場からこの問題の原因を究明しようとしています。食事が悪いとか、学歴偏重の社会が悪いとか、家族の結びつきが弱っているとか、様々な意見が出されています。これらの問題の原因を探ることは大切ですが、今最も必要なのは、病んでしまった彼らの心が、どうすれば癒され、健康な心を取り戻せるか、ということではないでしょうか。

  心の病いや問題の多くは、子どもの頃に負った心の傷に原因がある、と言われています。しかし、現代のティーン・エージャーを育てている親の世代こそ、実は癒されなければならない心の傷を山ほど背負っているのです。 結局、人も社会も科学も、人の心を癒すことはできません。人の心を癒せるのは、人の心を造られた神だけなのです。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
  わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 (聖書)
 
この世を照らすまことの光
1997年クリスマス号

 
人生の収穫期
1997年秋号

 
人生はやり直せる
1997年春号

 
クリスマスプレゼント?
1996年クリスマス号(創刊号)